なので一枚のドーナツ盤を買うと、元を取るべく、繰り返し何度も聴いた。ジャケットとその裏の歌詞を穴が空くほど眺め、歌メロを覚え、それだけでは飽き足らず、バックの演奏もじっくり聴いて、スピーカーから流れてくるものすべてを覚えた。楽器には詳しくなかったので、その音をどんな楽器が鳴らしているのか分からないまま、アンサンブルの旋律を楽しんだ。
きっかけはたぶんゴダイゴの「モンキーマジック」。歌詞を見ても横文字なんてチンプンカンプンだったから、サビ以外はタケカワさんと一緒に歌えない。なので歌メロと伴奏をひとつのものとして捉えるしかなく、ファンキーなビートとベースライン、カッティングギターの中で、ミッキー吉野さんのキーボードが縦横無尽に動き回っていて、まるで石からサルが生まれて、さまざまな術を身につけ、最後は筋斗雲に乗って飛び去ってゆくさまを感じ取り、音楽って凄いんだなと感じた。
「銀河鉄道999」でも、ゴダイゴの演奏は、発車していく車両、車輪の力強さや遮断機が降りた線路を疾走していくイメージを抱かせてくれた。僕は次第にそんなプログレッシヴロックな聴き方を楽しむようになった。
またYMOの登場も大きくて、「なんでこの音のチョイスでこんなフレーズ?」という課題をもって音楽を聴く習慣がつくと、僕が出会って気にいるすべての音楽には、無駄な音がないことに気づいた。
それが思春期を迎えて、いろいろと異性にムフフでアハーンな興味を抱いたとき、僕の琴線に触れるサウンドは「エロ」だということに行き着いてしまう。
僕の場合、やはりエレキギターの音色にいちばん興味を持つんだけど、フィードバックとかチョーキングとかプリングとかピックスクラッチとか、さまざまなギタープレイの技法がまるで、Hモードな女性の官能ヴォイスに聴こえるという変な病(笑)でも、それはある意味正解だ。
マディ•ウォーターズのスライドギターも、ジミヘンのイカれたギターソロも、マイケル•シェンカーやゲイリー•ムーアの泣きのギターも、ランディ•ローズやエディ•ヴァン•ヘイレンのトリッキーなプレイも、とんでもなく官能的だ。
そんな風に音楽を聴いていると、重箱の隅を突くように「この曲は洋楽のこの部分をパクっている」という粗探しに執着しすぎる解説はつまらない。「時系列」が無視されていることも多いし、やはり実体験に基づいていない人はその手のミスをよくやらかす(笑)
それよりも、楽曲のすべての音に包まれ、演者が何をイメージしながら弾いているのか、想像を膨らまして聴く方が愉しくて健全。プロのミュージシャンの表現力をリスペクトしながら。
バブルという乱痴気な時代。アメリカのロックフェラーセンターや映画会社を日本の企業が買い、世の中が「踊るポンポコリン」だった。
僕はバブルの恩恵などとは無縁の貧乏学生生活•••がイヤで、数ヶ月の間、東京の不動産屋で金持ち相手の賃貸マンションを売ってました。山手線沿いのマンションのワンルームが数億円、欲に駆られてフロア買いした高額納税者たちは、その後無事だったんだろうか。
で、大阪に帰ってきて、鍼灸学校に復学したんだけど、これがまったく馴染まない。スーツ姿で毎朝満員の山手線に揺られ、アポを取った顧客と面談して、節税対策の計算や物件の内見や契約に立ち会ったりしてると、鍼灸学生の既定路線だった裏口進路とか不正請求のために、たかが柔整師ごときに媚びる生き方がしょーもなくて醜くて、友人たちと距離が開いた。
さて、そんな激動の僕の耳に飛び込んできた「世界はUp &Fall」!
この曲はすごく尖っていた。僕の脳内でかつて東京上空を俯瞰していたパラシュートの男とダブってしまう。
タイトルどおり、曲の展開は目まぐるしく変わる。ギターコードの中でもとりわけヘビーなEmがガツンと攻めてくるあたり、さらにディストーションとコーラスの効いたDsus7が見事にスピード感を醸し出す。
この曲の間奏でボコーダーを介して言ってるコトバ。「rule of power 」なのか「rule of tower 」なのか、僕には正確に聴き取れないけど、そのあとに「kiss my ass!」と言っているのは分かる。英語が苦手でも悪口やスラングだけは分かるパンクな僕が解釈するところ、権力や富の支配に対して、かなり下品なコトバで「ふざけんな!」と言っているのだ。
乱立するガラス張りエレベーターのビル群は、まるで世界全体を包む乱高下の激しいパワーバランス。上昇志向はありつつも、同時にその危うさにも勘づいている主人公。近未来的ではあるが同時にしっかりとシニカルで現実的だ。
そして男はかつて「安らぎ知らない遊園地」を真っ赤に燃え上がらせたように、この曲のラストでも花火を準備している。
今にして思えば、バブル期のジュリーの楽曲は、それを憂いているものが多い。「Muda」のように逆手に取ったケースもあるんだけど、歌の内容よりも現実のほうが常軌を逸していて、さすがのジュリーも試行錯誤すれど、イマイチ傾奇(かぶき)きれなかった感も否めない。
イカ天に端を発する「バンドブーム」では、ジュリーの代表曲のひとつでもある「TOKIO」ですら、残酷な蹂躙を受けた。だからこそ「世界はUp &Fall」は生まれたのではと考えるのは、妄想が過ぎるだろうか。
カスでもゴミクズでもラッピングしだいでは何でも売れることへの反発。当時の吉田建さんの動きは、泉谷しげるのLOSER、そしてジュリーのJAZZMASTERで、ホンモノのホンモノによるホンモノを生ぬるい世俗に叩きつけるようで、僕はその天晴れな仕事に深い敬意を抱いた。
吉田建さんとのタッグには、ファンですら戦慄をおぼえるほどのジュリーの底力がある。傾奇き、弾けて、精力的に学園祭ライブをまわり、これぞROCKだというライブを体現した。
僕は「世界はUp &Fall」に、そんな反撃の狼煙に似た強い意気込みを感じ、何かの理不尽に立ち向かわなければならないとき、僕はいまだにこの曲にすごく元気をもらっています。
]]>上着を脱いで、痒みの一点に集中し、いろんなポーズをとりながら手を伸ばすんだけど、あと数センチ、酷いときには数ミリの位置で、町娘にインネンをつけているところ、通りすがりの杉良太郎に腕を捻りあげられた時代劇のチンピラみたいに、肩の付け根が「イテテ•••」となって「ちくしょう、覚えていやがれ!」と吐き捨てたくなってしまう。
血が滲むくらいボリボリと掻きむしったらどんなにか気持ちいいだろう。年々、柔軟性が無くなっていく自分のカラダが恨めしい。自分の腕の守備範囲が佐藤テル並みになっていくのを感じて寂しくなってしまう。あと数センチで届くのに、辿り着けないもどかしさ。人生の縮図的な悲しみを感じてしまう。
百均で買ってきた孫の手はやたらと冷たいし、誰かに掻いてもらっても的外れだったり、強さが物足りなくて、余計に心が騒がしくなる。
じゃあ、痒みはずっとそのままかと問われるとそうでもなく、案外、何か他の用事をしているうちにすっかり忘れてしまっている。あんなに大騒ぎしていたものは一体何だったのか?だけどそれを思い出した途端また痒くなる。波のように寄せては返す「背中の痒みブルース」。だから厚着とヒートテックの肌着は嫌いだ。早く暖かくなればいいのに。
]]>
いいジャケは見飽きない。それは芸術作品のように心を虜にする。ちなみにジュリーの「LOVE〜」、「STRIPPER」、「架空のオペラ」は僕の「神棚に飾りたいジュリー三大アルバムジャケ」です。
いいジャケットのレコードにハズレはない。中身が素晴らしいからジャケまでよく見えるという逆の現象もあると思うが、ネットという情報源がなく、お小遣いに乏しかった若かりし僕が、数多くの名盤たちと巡り会えてこれたのは、「帯」に書かれたキャッチフレーズなどアテにせず、自分の「感性」を信じて選んだ「ジャケ買い」の成功率が極めて高かったからだ。
それではここで特定のバンドやアーティストのレコードを複数枚から選ぶとき(いまさらあるのか?)に失敗しないコツをいくつか紹介したいと思う。気に入ればコンプリートしたいんだけど、まずどれから買うか迷ったとき、とりあえずベスト盤から買ってみるなど愚の骨頂。名盤と出会えたときの喜びを味わいたいなら、オリジナルの主張に耳を傾けるべき。
?なるべく突拍子のないもの、ぶっ飛んでいるものを選べ。特にハードロック、メタル系はとにかくジャケがぶっ飛んでいれば名盤。
?お下品、お下劣なジャケはたいてい名盤。レジで店員に差し出すときの恥ずかしさや後ろめたさは快感。
?顔面どアップジャケに駄作なし。迷ったらコレ。ソロアーティストのアルバムは顔のサイズで選んでおけば間違いない。
?「なんでこーなるの?!」というダサさは侮れない。思わぬ名盤が隠れている。
具体的にそれぞれのレコードを紹介しようと思ったけど、興味のある方はぜひご自身でご所有のレコードに当てはめて考えてみて欲しい。名盤だと思える中にこの4種類はあるはずだ。
•••ということで、この記事は続編をお待ち下さい。
僕の場合はブログなので、「これを聴いたとき自分はどんな場面にいて、どんな衝撃を受けた」と実体験を語るほうが面白いと信じて疑わない。それを上手く表現できればと、低い知能、拙い文才、少ないボキャブラリーを駆使していつも四苦八苦&空回りしているんですがね、この「ジュリーな毎日」は(笑)
カッコよくいえば、いわゆる5W1Hの思考整理に基づいて記事が書ければ理想的なんだけど、頭が良くないうえに人間性がアホアホだからなぁ、僕は。
でも生意気を云わせてもらえば、自分の人生をしっかり生きて、その中で魂を揺さぶられないと、音楽は自分の一部にならない。自分の「場面」がその音楽に彩られることがいちばんの値打ちだと思うんです。
音楽を聴いていて、無性にボリュームを上げたくなったときの感性こそが大切。ロックとは本来そういうものなんです。歳を重ねれば人間は丸くなるものですが、どこか尖ってないと簡単には引っ掛かってくれなくなり、リマスター盤の音質とか75歳の老化現象ばかり気にするようなクソくだらない聴き方しかできなくなる。
つまり反骨精神、反体制のスピリットはいつまでも大事だということ。オマケに貧乏と不満と不安と理不尽が常に傍にいて、「悠々自適」には程遠い暮らしの中で、我が家のステレオのスピーカーはいつもフル稼働。もしも何かの手違いで「悠々自適な暮らし」が訪れたときには「ジュリーな毎日」などやめて、「お経」のカセットもしくは「幸せなら手を叩こう」だけを聴きます。•••それは逆に地獄やん。
また「怒り」だけじゃなく、「missing」あるいは「loosing」というのかな、そういう感情も音楽のボリュームを上げさせる。キャラ的に違うのでそっち系の記事を書く予定はないけど。
世間一般ではよく「思い出の名曲」なんてカテゴライズされるけど、いまをしっかり生きている人にとっては、音楽に古いも新しいもないのです。昭和何年の曲であろうが、現在進行形で魂を揺さぶる曲がベストなんだと思うし、そんな音楽に出会えば、誰しも叫んだり語りたくもなる。現にいまザ•タイガースを聴いて「うおー」と興奮している若者が僕の身近にいるし。あとは若者本人がしっかり「自分」を生きてくれれば。
と、こうやってあらためて自分のスタンスを記しておけば、今後の記事の更新も容易になるはず。同じ曲についての記事だって、僕が聴き続ける限り、現在進行形で新たに幾つでも書き続けることができるからね。つまりネタ切れは絶対にないということ。問題は僕の根気と集中力と文才だけです。
]]>《「苗字で危機一髪」の続き》
奥野くんが「映画の友」という雑誌を推したおかげで、僕のニックネームが「エロ本」になることは無事に回避できた。しかし肝心の「映画の友」の中身がどんなものか知らなかった僕は、後日わざわざ離れた町の本屋に確認しに行った。
こいつは劇薬だった。「映画の友」を手に取ったことにより、僕の興味は成人映画一色になってしまったのだ。いままではHな映画館の看板やポスターはさりげなく横目で眺めるだけだったのに、この雑誌のせいで、成人映画や女優の情報が、黒船来航や文明開化くらいの勢いで大量に飛び込んできた。
その頃はまだHなビデオもない時代。大人になったら「11PMのテレビクルー」になりたいという夢を抱くほど、「動く裸女」に憧れていた僕にとって、成人映画はまさに夢の到達点だった。
寝ても覚めても四六時中、脳裏に作品タイトルと主演女優の名前が次々と浮かんでくる。これは自分でもさすがにヤバいと感じたので、エロ同志であるFに思いを打ち明け、一緒に観に行くことにした。
障壁は中2にしてすでにオッサンの風格を帯びているFに比べ、僕の見た目があまりにも中学生すぎるという点。成人映画には年齢制限があるため、まずは成人に変装しなければならないけど、僕の私服はサーフィンブームに乗じてBOLTのトレーナーが一張羅だったので問題外。
どうすればオッサンに見えるか思案の結果、ポマードをネトネト塗りたくって毛髪を頭皮にペタペタはりつけ、Fのお爺ちゃんの千鳥格子のブレザーと農作業ズボン、ラクダの肌着を借りることにしたのだが、これで眼帯でもすれば丹下段平である。
さすがに余計に怪しいということで変装を諦めたが、3年生に「ピンク界の聖子ちゃん」として有名な寺島まゆみさんの熱烈なファンがいる噂を聞きつけ、勇気を振り絞りコンタクトを取ってみると、先輩曰く「映画館はさりげなく通れば余裕」ということらしい。生徒手帳を見せるわけにもいかないから学割は使えないゾと言われたが、そのくらいは最初から分かっている。
かくして僕とFは、ある土曜日の昼過ぎ、千日前にあるガラガラの映画館で、念願の成人映画との対面を果たした。
のだが•••。
たまたま豪華3本立ての作品たちが良くなかったのか、あっけらかんとした濡れ場シーンには、妄想していた隠微さや妖艶さを感じられず、これなら土曜日ワイド劇場のオープニングのほうが想像力がムラムラ掻き立てられてヤラシイと感じた。
Fも「俺は漫画のほうがええ」と言っていたが、やはりエロは「現物」と「想像力」の両軸で成立するもので、情報量が多く、想像の余地のない映像は、よほど登場人物に感情移入しない限り、素人には思いのほか退屈なものなんだと、肩を落として帰った。ワイワイ騒ぎながら観れたら楽しかったかも知れないけど。
数日後、Fの部屋でエロ本を眺めていて、「おい、このページ上下に動かしたら、胸が揺れているように見えるぞ!」、「お〜ホンマや!揺れてるわ!」というアホな会話に戻ったとき、自分でも何か憑き物が落ちたような気がした。
]]>
まあ反抗期ですわな。まわりもヤンチャを通り越してヤバい奴らが多かった。荒れてた時代ですからね。だけど僕は粗暴なだけよりも、知的で根明なワルでいたかったので、やりたくない受験勉強の代わりに、たくさん本を読んだ。
いろいろな矛盾に気づいた僕は大人たちに逆らって、毒づいて、言い負かしてやりたかったんだけど、大人は常に「頭ごなし」だった。僕の言い分には耳を貸さず、自分たちこそ全知全能だと言わんばかりに威張っていた。それがさらに愚かで哀れに見え、より小馬鹿にする対象となった。
また色気づいた僕には、好きな女の子がたくさんいた。ふだん一緒に悪さをしているブルーベリーガムの口臭がする子たちではなく、おとなしくて真面目な子と仲良くなりたかったけど、話しかけるキッカケも共通の話題もなく、ただ「女の子雑誌」に載っているジュリーの切り抜きをせがむだけだった。
つまりいくら読書をしたところで、僕の口から発せられる言葉は、いつもガサツなバカ話と悪態だけだった。本当は本から学んだことを饒舌に話したり、いろんな人たちと「会話」がしたかったのに、残念ながら僕はそんな柄ではなかったのだ。自分が空回りしていることに気づいているのに、軌道修正できないもどかしさが余計に苛立たせる。
「晴れのちBLUE BOY」と出会ったのは、僕がそんなフラストレーションを抱えていたときだった。ジャケットはまるで上官の命令を放棄した不機嫌な不良分隊に見えた。
邦楽では馴染みのなかったジャングルビートと旋律、エイドリアン•ブリューのようなエレファント•トークギター、僕の耳はすっかり釘づけになり、鼓動が高まった。
♪言いたいことはヤシの実の中
言いたいことはヤシの実の中
僕は花火よりひとりぼっち
はじめて聴いたとき、全身の毛が逆立ち、意味もなく「ワー!」と叫び出したいような、そこら中を走り回りたいような不思議な感覚に襲われた。
「これ、オレの歌やん!」
もちろんそんなわけはないのだが、剣道で面打ちをキレイに決められ、目から火花が散り、脳天にツーンとくるような衝撃に似ている。自分が直面していた悩みが、たった三行の歌詞によって打ち抜かれたのだから。
元々、「BLUE BOY」というコトバは、すでに佐野元春の「DOWN TOWN BOY」の歌詞で馴染みがあった。こちらは「愛を失いそうだと焦りながら、深夜映画館の前でその夜最後のナンパを試みるくわえタバコの少年」というリアルな設定だ。
しかし「晴れのちBLUE BOY」は、作詞者の銀色夏生と作曲者の大沢誉志幸がぶっ飛んでいるし、アレンジの大村雅朗はさらにぶっ飛んでおり、EXOTICSの演奏、そしてボーカルの不良分隊長はとんでもなくぶっ飛んでいる。この皆さんのぶっ飛び具合が痛快で心地良かった。何か新しいことがやってくるポジティブな予感、光が差してきた。
歌謡曲としてはあまりにもイカれ過ぎている。音楽性や歌詞の内容は一般リスナーに理解されるか?僕個人は勝手に鼻水が垂れてしまうほど大歓迎でお気に入りだけど、ピンク色のスヌーピーを腰からぶら下げて、こんなに暴れ回っても平気か?「沢田研二ショー」では小森のおばちゃまも大興奮。そして83年大晦日のパフォーマンスは伝説になった。
「晴れのちBLUE BOY」はいまでも僕をヤンチャな気分にさせてくれる。もっとも僕はすでにBLUE BOYではなく、「生きることに青息吐息のおっさん」と化してしまったけど、この曲はいつでも僕を15歳に戻してくれる。体型と髪の量も戻れたらもっといいのに。
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基本的に僕のクジ運は最悪なのだが、今回は息子や嫁もアウト。ふだんはチケットのみならず、いろんな商品の抽選にも当たる強運の母子なのに•••。
一般販売にチャンスを賭け、それでダメならリセールサイトを利用するしかないのだが、「確定」ではない隈ぐましさ、心地の悪さは、自分でも信じられない重圧となって、夜毎寝汗びっしょりでうなされるしまつ。全然落ち着かない。
どこか遠方のチケットなら、そうでもないかも知れないけど、基本、遠征をしない僕にとって「自分のホームグラウンドのライブに行けないかも」と考えてしまうと、やはり焦ってしまう。あの2回連続バルコニー席ゲットの快挙はどうしたんだ?
だけどこれまでは、たまたま偶然に運が良かっただけの話。やはりいまの僕と同じように、落ち着かないファンの方も毎回たくさんいらっしゃるのだろう、無視してごめんね。
いまは自分のことを、仕官の道を断たれた「チケット浪人吉本臣ノ介」と名乗り、身をやつしながら、北向きのあばら長屋で傘張りをしているような気分。
今日、ふと考えたんだけど、いまの僕がイライラ中なことに気づいている人が周囲に誰もいない不思議。世の中ってこんな風に成り立っているのだろうけど、僕がカチンときてしまったときに、「あのときの僕はカリカリしていたものでつい•••」という証拠を残しておくために、この文章をアップしておくことにした(笑)
]]>
そう、それがライブ(生)である。
モニターもなく、歌詞も見ずに、動き回って歌うのは超人的なんだぞ。そりゃ調子の良くないときもあるだろう。椅子に座って、耳にモニター差して、バンドの音量も控えめにして、歌詞を見ながら歌うか、口パクでも満足か?
仮に残念なライブだったとしても、そのときは一人で酒でも飲んで寝ればいい。わざわざ吹聴してどないすんねん。お前はナニ様やねんって話になりませんか?
いつも完璧なものを求める人は、自宅でDVDを見てればよろし。特に昔の映像は、コチラ側の著しい劣化を除いて何も裏切りませんから。
今回の記事にわざわざ過敏に反応するのがアホらしい。しかし溜飲は下げたいですよね。さあみんなで失笑し、こんな記事を載せてメシを喰らう週刊誌を蔑んでやりましょう。
「ウルトラセブン」は永遠のヒーロー、越後製菓の「サラダセブン」はビールのツマミに最適。それにひきかえ、「女性ナントカ」はいただけませんね。紙媒体なんて環境破壊。恵方巻きと同じくらいSDGSに反している(蛇足だがメディアはどうして神事でもないトチ狂ったカルト新興迷信を煽るのだろう)。
そのうえ記事の内容が不愉快ときたら、もう存在意義すら分からない。転売ヤー以外、誰も買わなければいいのに。
まあ、この話題が拡がって、あいつらが「ダメだこりゃ」とチケット争奪戦から撤退していけば幸いだ。
僕はご本人がぶっ倒れるまでライブに付き合う。でもまだまだ大丈夫。ローリングストーンズやポール•マッカートニーのアクティブさを、あの「負けず嫌い王」が見過ごすはずがない。あのお方は心無い者に叩かれたあとが神がかって凄いのだ。だからこれからがますますロックだ。
しかし「吉本興業」なんて序の口。デリケートな年頃に、自分の苗字が大キライになってしまいそうな揶揄われ方があったのです。
それは中2のある日の出来事でした。よりによって国語教師の口から出たその一言は、いまなら一歩間違えればイジメや登校拒否に繋がる可能性さえあると思いますが、学校が嫌いにならなかった自分のアホさとクラスメイトの単細胞っぷりに感謝です。
その日、僕は日直でした。授業開始時に、「起立、礼、着席」の号令を発するのは日直の役目だったのですが、休み時間のたびに躍起になって各クラス(上級生のクラスでも臆することなく)をまわってジュリーの新曲キャンペーンと切り抜き回収に勤しんでいた僕は、チャイムから遅れて教室に戻り、うっかり号令をかける役目を忘れていました。
国語教師は「え〜っと、今日の日直は•••」と黒板の右端、日付と曜日の下に書かれた日直の名前をゆっくりと覗き込み、「•••おい、エロ本って誰や?」と、おそらくその教師のネタなんだろうけど、「吉」の部分を「士」と「口」に分割して、縦書きの「吉本」を「エロ本」と読んだのです、
「エロ」には過敏なお年頃ですからね。クラス中が大爆笑。友人たちが僕を指さして「エロ本!エロ本!」とコールがはじまり、ついには歌舞伎観劇の「◯◯屋!」みたいに、「エロトピア!」とか「GORO!」、「スコラ!」などと口々に商品名を挙げ出すしまつ。バカでしょ、みんな。隣のブリっ子が、汚いものでも見るような顔を僕に向けて「イヤ〜!」と呟いた。
ちょうど思春期をこじらせて色気づきだした僕は、こっち方面でイジられるのだけは非常にマズイ。中身はエロ探究の権化、いわゆる「ムッツリ」のくせに、女子の前では猫をかぶってサラサラヘアーの爽やかな好青年を無理して演じている努力が台無しです。
友人たちが「平凡パンチ!」、「プレイボーイ!」、「アクションカメラ!」などと、赤面している僕を揶揄う中、普段は目立たない奥野くんが、声変わりもしていないよく通る声で、「映画の友!」と発した途端、一瞬の静寂。男子生徒全員が「•••ん?」。
ひと呼吸おいて一斉に「それはちゃうやろ!」とツッコミの嵐。「映画の友」ですからね、タナカの「旅行の友」と同じく、家族向けの健全なものに決まっている。矛先が「僕」から「奥野くん発言」にチェンジしたことで、イジメの危機を逃れることができました。
後日、本屋で「映画の友」のページを巡ってみると、あまりのエロさに思わず一冊買ってしまいました。確かに日本で公開される邦画の本数は「角川」よりも「にっかつ」。「水のないプール」がどんな内容なのかも、「映画の友」は詳しく教えてくれました。声変わりもしていない奥野くん、侮りがたし。
↑「水のないプール」公開時、先輩方は観に行かれましたか?女性には少し抵抗があったと思いますが、よければどなたか「思い出話」など教えてください。
次回作「吉本くん映画の友を片手に成人映画に行く」に乞うご期待!(嘘)
]]>相変わらずコロナやインフルも検査陽性率はかなり高く、僕が出向しているクリニックでは百発百中の日もあります。
過敏になりすぎなくてもいいのだろうけど、あまりに無警戒で無神経な人が多いせいで、休みの日などは外出するのが恐怖になり、自宅に篭って好きなレコードをかけながら、プラモデルを作っています。
久々のプラモ復帰なんですが、ずいぶんと業界の雰囲気が変わりました。昔は人づきあいが不得手な男子の世界というか、プラモが趣味の友人タカッチがそういうタイプだったので、僕の偏見かもしれない。
ところが近頃は陽キャの可愛らしい女子たちがプラモのYouTubeチャンネルを開設していて、彼女たちの動画をすごく参考にさせてもらっています。華やかな若い女の子モデラーの解説は、飽き性のおっさんのモチベーションを顕著に上げてくれます。
プラモ復帰のキッカケは、「ゴジラ-1.0」であの幻の戦闘機を見たから。子供の頃からの旧日本軍戦闘機マニアの血が再沸騰。
必要な用具や塗料、溶剤も揃えた。最近は百均でも優れものが出ているので財布にも優しい。分からないことはYouTubeやネットですべての情報収集が可能。プラモデル本体もAmazonで探せば欲しいものが見つかる。
これほど有利な環境下なので、さぞかし立派な作品が作れるだろうと思いきや、老眼がこんなにハンデになろうとは•••。
メガネ型のルーペ着用でなんとか作業はできるけど、どうやら我が家には異世界に繋がるポイントでも存在しているらしく、ときどき細かい部品が姿を消す不可解な現象が起こり、なぜか数日経ってから上着のポケットから出てきたり、足の裏に張りついていたりする謎。
接着剤を塗った覚えのないところがくっつき、繊細な作業とか細筆で色塗りをすると病気か?というほど手が震えるし、溶剤の臭いは嫁をキレさせ、かといって換気すると必要以上に寒がられる。
1300円のハセガワ1/48局地戦闘機「震電」は、同じものをふたつ作った。1機目より2機目のほうが上手にできたけど、失敗したところや気に食わない点が多々あって、たぶん3機目はもっと綺麗に作れると思うけど、何が自分をそう掻き立てるのか。
まあこれで止めれば揃えた塗料の残りが無駄になるんで、同じ配色のプラモデルを作り続けなければなりません。まずは飾るスペースを確保しなくちゃ。
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難しいとは分かっていても、コトバや文章で発しておくほうが、ただ黙っているよりかはマシだろうと、あえて書いてみることにします。
それは•••。
令和版の「JULIE SONG CALENDAR」が出たら卒倒するくらい興奮するんだけどなぁという願望です。
「JULIE SONG CALENDAR」そのものが「夜は気ままに」の番組内企画だから、実現なんて夢のまた夢なんだということは重々承知の上なんだけど、前作で詞を提供してくれた皆さんや、ジュリーをリスペクトしている著名な女性陣による歌詞にジュリーが曲をつけ、ジュリー温故のアレンジャー達が編曲を担当したら、凄すぎるものができるのではないだろうか。
昨年、僕はストーンズのニューアルバムを聴いて、やはりジュリーにもルーツを辿るような力強いニューアルバムを出して欲しいと強く思ったのです。
確かにいまのオーディエンスは、昔のヒット曲だけ歌って欲しいと願う人たちの比率が高いかも知れませんが、そうではないファンもここにいるってこと。
そりゃ僕でも、いままであまり関心がなかった人のステージを観ることになれば、知ってる曲を演奏して欲しいのが心情。それはよく分かります。
デイサービスでの歌モノの催し物は、誰が歌おうが坂本九と裕次郎ナンバーがテッパンだし、海外に目を向けても、どうせ代表曲しか求められないから新譜はもう出さないと決めたバンドもあります。需要と供給のバランスを考えれば、高齢者がユーザーになれば、これは致し方がないのは分かるんですけどね•••。
だけど55歳、今なお現役バリバリの音楽好きとしては、やはり新譜を聴くドキドキ感を味わいたいのです。新曲を聴くスリルや喜びは、何にも変え難いものがある。それがジュリーの新譜なら尚更だ。生意気にもアレコレ言いたいし、歌詞や振り付けも覚えたいし、悩みながらギターパートをコピーしたい。
先輩の皆さんは、はじめて聴くCDやレコードを再生するときの気持ちなんか、もう忘れてしまったのでしょう。それぞれの人生が大変だもの。
しかし、宝物のように大事にレコードを小脇に抱えて家路に着く気分、レコードをターンテーブルに載せ、背筋を伸ばして最初の音を聴くまでのピリピリした緊張感や、ジャケや歌詞カード、クレジット、オマケのポスターを何度も眺める高揚感って、生きとし生けるもの、YouTubeで他人の無責任な意見に同調するより重要だぞ。
ともかくライブは別として、僕はこうやってジュリーと対話してきたし、こういう音楽との出会いの中毒者なんですわ、僕は。
令和版「JULIE SONG CALENDAR」が無理でも、どうか「新曲」をお願いします。いままでジュリーが新曲を出すたび、どんな歌なのか、どんな衣装で演るのか、ずっとずっと気にしてきた「少数派」の気持ちというのも、ぜひ汲んで欲しいと願う今日この頃なのであります。
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アルバムそのものが僕に佐野元春さんや伊藤銀次さんを知るきっかけを与えてくれた作品だし、そこからどんどん僕の世界が広がっていった、いわば僕のスタートラインと呼べるスペシャルなLP。ひとりの少年の人生を変えたんだから、すごいことだ。
楽曲もアレンジもカッコよくて痺れるんだけど、正直いうと中学生には歌詞がイマイチよく分からなかった。「虚栄心工場」って一体なんやねん(笑)実際にあちこちの町工場の看板を眺めては「Vanity」を製作している「Factory」を探しまわりましたよ、アホな僕は。
結局、「Factory」というのが比喩だということに気づくまでに、どれほどの歳月を費やしたことか。途中、ARBの「ファクトリー」という生々しい曲にも影響を受けたことによって、余計に混乱してしまった僕。
まあ、比喩ですわな(笑)街のいたるところで世相の「自惚れ」や「思い上がり」が生産ラインに乗ったくらいの勢いで日々増産されていく状況。それは「間の抜けた街のジャズに合わせてリズムを取るような行為」だったりするのだけど、そんなのはもうやめだと主人公は主張する。
佐野元春ファンとして述べると、佐野さんの創作手法のひとつに、言葉遊びをしながら街を俯瞰しつつ、目線はけっこう鋭くシニカルというものがある。
2ndアルバム「HEART BEAT」収録の「It‘ Alright」という曲が言葉遊びの代表曲に挙げられるんだけど、実はこの「It‘ Alright」 こそが「The Vanity Factory」と対を成しているのではないかと僕は勝手に妄想するようになった。ここでは歌詞は割愛しますが、皆さんも機会があればぜひこの2曲を聴き比べて似ている点を探してみて。
ただ「It‘ Alright」は肯定で、「The Vanity Factory」は否定。これが何を差すのか?ピアノのソロから滑りだしたマッコイ•タイナーのナンバーの意味と同じくらい、未熟な僕にはまだ分からないけど、バカボンのパパならきっとこう言うだろう。「これでいいのだ」と。
今回の記事を要約すれば、「The Vanity Factory」には「It‘ Alright」という兄弟曲があるよ、というあまり誰も得をしないお話でした。
しかし僕はきっといまもジュリーと佐野さんは相思相愛、お互いをリスペクトし合っていると思っていて、難しいんだろうけど、いつか再びタッグを組んで楽曲を発表してもらいたいのです。「耒タルベキ素敵」の制作時、どうして佐野さんに楽曲の依頼をしなかったのか、あるいはなぜ実現しなかったのか。
「The Vanity Factory」や「彼女はデリケート」を一緒に演るおふたりの姿が見てみたい。そんな願望を込めて、この記事をアップしました。
いきなり人のヘッドフォンの片方をひったくっておいて、このアマ、何を言い出しやがる。そりゃ確かに周囲に「憂歌団」に酔いしれている高校生なんていなかったけど、不躾にも程がある。
彼女が下敷きにリマールやワムの切り抜きを挟んでいるのは知っていた。洋楽っていったって、所詮はビジュアル最優先の流行りモンだけだろう。僕が内外の音楽に詳しいことを聞きつけ、席替えで隣合わせたことを幸いに、マウントを取りに来た自称音楽好きの女。
やたらと「アレの新曲はもう聴いた?」なんて挑戦的な態度を取る。「お前が興味を持つものなんかハナから関心がない」と応えたところで、「何ムキになってんの〜」と鉄壁の防御力をみせられたときには返す言葉すらない。
僕は心の中で、彼女のことを「ベストヒットUSA女」とか「ミュージックライフ女」と呼んでいた。ミーハーな彼女のネタ元なんて、大抵このふたつだったからだ。
そもそも僕はその頃、リアルタイムなトレンドを追うより、80年代前半、70年代、60年代に遡ることに夢中だった。どうせ新しいものは放っておいてもあちこちで自然に耳に入るし、よほどの話題作ならば誰かにレコードやカセットをダビングしてもらえばいいだけの話だった。
そんなウザい彼女からの挑戦をかわしつつ無事に高校を卒業し、成人し、やがて僕も人の親になった。
あるときゴールデンウイークでごった返している泉南のオークワに買い物に出掛けたら、店内でキャラクターショーが開催されているのに出くわした。せっかくだからと僕も幼い息子を肩車して客席の後ろに立った。
「♪アンパンマンはキミだ〜」
と2人組のアイドルが歌っており、着ぐるみが後ろで踊っている。客席の子供たちは大喜びでヨダレを垂れ流しながら、一緒に踊ったり歌ったり、会場は熱狂の渦に包まれる。
ふと客席の最前列を見ると、子供そっちのけで、拳を突き上げながら、ノリノリで踊っているファンキーなお母さんがいるではないか。明らかに他の親より浮いている。どこかの密林でスピリチュアルな踊りに興じる先住民のトランス状態のように、一心不乱にお尻を振り続けており、もはや「解脱」の域に達しているといっても過言ではない。
•••あいつだった。
僕の脳裏にあのときの、
「あっゴメ〜ン、アタシって洋楽しかノレない女なの」
という言葉が浮かんできた。
「洋楽ちゃうやん!」
と文句のひとつも言ってやりたかったけど、彼女のあまりの変わりように圧倒されてしまい、気づかれないうちにその場をあとにした。
チクショー、それにしてもいいノリしてたぜ。
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この映画が公開されたのは、僕が小学4年生の頃。ストーリー、メカニック、戦闘の描写、音楽、主題歌、どれをとっても他のアニメとは一線を画すクオリティの高さとリアリティに打ちのめされ、この作品の虜になった。
ところが元々、初代「宇宙戦艦ヤマト」であるテレビ版は、視聴者である子供達から不評だったため、打ち切り決定となり、途中から内容を端折って放送されるという悲しい過去を引きずっていた。
とにかくストーリーまでワープさせたせいで、印象的な「地球滅亡まであと◯◯◯日」というカウントダウンは曖昧になり、最後に主人公のお兄さんが出てきても「?」と意味が分からなかったし、デスラー総統は途中から顔色が悪くなるし、腑に落ちない作品であることは確かだ。
しかし劇中に出てくる「ワープ」とか「波動砲」、また沖田艦長の「地球か•••何もかも皆なつかしい」というセリフなどのインパクトは絶大で、SFアニメの金字塔を打ち立てていた。
そこへ続編が映画化、しかも「さらば」と銘打っているし、その後、大人の事情で都合よく何度もよみがえることになるなんて当時は誰も予測できなかったから、「これは絶対に観ておかなければ」と焦燥感に駆られた。
その期待は裏切られることはなかった。金太郎飴のようにどこを切っても日本人好みするストーリーと、絶望を抱かされる展開は、100点満点で200点の作品だったし、エンディングの「ヤマトより愛をこめて」に涙した人も多かったのではないだろうか。
この作品のヒットによって、不評だった前作まで再注目されるようになった。逆に続編が出るたびヤマトの評価は右肩下がりになっていったので、「宇宙戦艦ヤマトシリーズ」では、「さらば宇宙戦艦ヤマト」が最初にして最大のピークである。
近年になって「宇宙戦艦ヤマト2202」としてストーリーやメカニックが作り込まれたものにリメイクされたけど、これは「一般的な日本人好み」ではなく「オタク好み」だったので、僕はまったく好感を持てなかった。男性キャラを女性に変更するという不自然な萌え系が気持ち悪く、あまりに不快すぎて視聴は断念した苦い経験がある。
やはり旧作で、名だたる声優陣がキャラクターに生命を吹き込んだものを、安物売りの人たちにキャピキャピされるとやたらとムカつくのだ。最新テクノロジーを駆使したアニメは、デジタル的には鮮明かも知れないが、音楽に例えると心を込めたバンドの演奏ではなく、パソコンでカシャカシャと打ち込んだカラオケの伴奏を聴かされているような気分。
結論として本来の「さらば宇宙戦艦ヤマト-愛の戦士たち」のファンって、「にわか」は別として、それほど最新技術や4Kリマスターにこだわっていない気がする。クリアな映像を見せられて「昔のアニメ作りはショボかったんだな」と幻滅するより、画質が悪くてもいいじゃん、ストーリーや世界観に惚れた僕は、無理やりの高画質など望んでいない。自分の脳内で細部や背景や行間を想像できなければ、映画でも音楽でも小説でも、心に響かない。
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